映画『失楽園』での演技が今も語り継がれるなど、長く第一線で活躍されている黒木瞳さん。
落ち着いた大人の女性という印象をお持ちの方が多いのではないでしょうか。
そんな黒木瞳さんですが、若い頃は宝塚歌劇団の舞台に立たれていたそうです。
どんな経歴で女優になられたのか、気になりますよね。
そこで今回は、
- 黒木瞳の若い頃と宝塚受験の経緯
- 入団2年目でのトップ娘役抜擢
- 芸名「黒木瞳」の由来
主にこれらについて迫っていきます。
それでは早速本題に入りましょう!
黒木瞳の若い頃は宝塚を記念受験していた!
黒木瞳さんは1960年10月5日生まれで、2026年8月時点では65歳になられます。
ご出身は福岡県八女市で、旧・八女郡黒木町にあたる地域だそうです。
本名は伊知地昭子さんで、旧姓は江上さんとのこと。
若い頃の黒木瞳さんは、福岡県立八女高校で演劇部に所属されていたそうです。
しかも部長を務め、高校演劇の九州大会にまで進出されたとのこと。
この頃からすでに舞台の上に立っていたわけですね。
宝塚を意識するきっかけは、高校1年のときに訪れたようです。
友人に誘われて、福岡市民会館で行われた宝塚歌劇団の地方公演『ベルサイユのばら』を鑑賞。
初めて見た舞台に衝撃を受け、その後も福岡公演に足を運ぶようになったそうです。
とはいえ、当時の黒木瞳さんは音楽大学への進学が決まっていたとのこと。
そのため高校3年のときに「記念受験のつもり」で願書を出したそうです。
ところが、その記念受験で合格してしまいます。
後年のインタビューでも「合格を知ったときは『困りました(笑)』」と振り返られていました。
そして1979年4月、黒木瞳さんは宝塚音楽学校に入学されています。
黒木瞳は若い頃に入団2年目でトップ娘役に抜擢!
黒木瞳さんが宝塚歌劇団に入団されたのは1981年のことです。
67期生にあたり、入団時の成績は39人中3位だったとのこと。
記念受験からの合格だったことを考えると、驚きの成績ですよね。
配属先は月組で、そこから一気に階段を駆け上がることになります。
なんと入団2年目でトップ娘役に就任されたそうです。
相手役は、当時の月組トップスターだった大地真央さん。
男役・娘役を通じて史上最速のトップ就任だったと言われています。
普通なら新人公演で経験を積む時期に、いきなり頂点に立たれたことになります。
抜擢の大きさゆえに、当時は風当たりも強かったのかもしれません。
それでも大地真央さんとのコンビは、月組を代表する存在として親しまれたようです。
そして1985年9月1日、黒木瞳さんは宝塚歌劇団を退団されます。
最後の舞台は『二都物語/ヒート・ウエーブ』の東京公演千秋楽だったとのこと。
相手役の大地真央さんと同時に卒業されたそうです。
黒木瞳の若い頃の芸名は五木寛之が名付けた?
「黒木瞳」という芸名は、実はご本人が考えたものではないそうです。
名付け親は、同じ八女市出身の作家・五木寛之さんとのこと。
出身地である黒木町にちなんだ名前になっています。
黒木瞳さんはラジオ番組で、その経緯を語られていました。
宝塚音楽学校では、夏休みの課題として自分で芸名を付ける必要があったそうです。
そこで五木寛之さんに命名をお願いしたところ、奥様から電話がかかってきたとのこと。
「黒木瞳というのはどうでしょう?」と提案されたそうです。
由来はロシアの歌「黒い瞳」で、「“黒”とくれば“瞳”だろう」ということだったようです。
ちなみに黒木瞳さんご自身は、別の案を考えていたとのこと。
地元の名所「黒木の大藤」から取って、「黒木藤子」にしようとされていたそうです。
退団後の黒木瞳さんは、女優として活動を始められます。
1986年にはNHK連続テレビ小説『都の風』に竹田桂役で出演。
同じ年の映画『化身』では、第10回日本アカデミー賞の新人俳優賞を受賞されています。
さらに1997年の『失楽園』で、第21回日本アカデミー賞の最優秀主演女優賞に輝きました。
私としては、記念受験から史上最速のトップ娘役まで駆け上がった若い頃の歩みに、単なる幸運以上のものを感じます。
演劇部の部長として九州大会まで進んだ経験が、どこかで効いていたのかもしれないなと思います。
まとめ!
今回は、黒木瞳さんの若い頃についてまとめました。
高校時代は演劇部の部長を務め、音楽大学への進学が決まっていたものの、記念受験のつもりで宝塚音楽学校を受けて合格されました。
1981年に宝塚歌劇団へ入団すると、入団2年目でトップ娘役に抜擢。
大地真央さんの相手役として月組を支え、1985年9月1日に揃って退団されています。
また芸名は、同郷の作家・五木寛之さんが名付けたものだそうです。
これからの黒木瞳さんのご活躍にも期待したいと思います。
それでは、ありがとうございました!

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