稲川義貴の経歴がえぐすぎる!自衛隊や警察に指導する武術家!

戦闘者、零距離戦闘術で活躍している稲川義貴(いながわよしたか)さん。

実は、壮絶な学生時代を過ごされていることをご存じでしょうか?

今回は、

稲川義貴さんの幼少期からの経歴

ついて詳しくまとめていきます。

知れば知るほどびっくりの経歴です!そして、本当にかっこいい。

是非最後までご覧くださいね!

目次

稲川義貴の経歴

まず戦闘者のプロフィール……気になりますよね、調べてみてました。

  • 誕生日は1978年
  • 東京生まれ。
  • 2023年現在で45歳。
  • 身長は非公表、おそらく172~174cm程度。
  • 体重、血液型は不明。

わかったのはこのくらいで、謎多き方です。

幼少期、家には刀があった

稲川義貴さんの幼少期、家には刀があり、祖父、そしてお父様は、神刀流という剣術をしていた方のようです。

神刀流は、明治中期ごろ、日比野雷風が開いた、古流武術の型を基本とした刀の扱い、姿勢、立居振舞いを大切にする抜刀術と剣舞の流派だそう。

そのため小さい頃から家に刀が置いてあり、不思議に思ったことはないらしいです。

本人は記憶にないらしいですが、お父様からは3歳ごろより新刀流を教わっていたとのこと。

しかし、特殊な技術なので、子どもに教えると、学校などで使ってしまうと大変なことになるから、技術的なことは何も教わらなかったとも話していました。

ただしつけは厳しかったようで、幼稚園に通っていたときには、正座せずに食事をしていたら、お父さんに包丁の横で頬を叩かれた経験があるんだとか。

怖すぎますね。刀がある家というのが戦闘者の育ったところだったのですね。

小さいころから武器を自作していた

また、お父様が義肢装具屋をしていた影響もあり、稲川さん自身、物づくりが大好きだったようです。

木刀を削り出したり、割りばしでゴム鉄砲を作ったり、鋸で木を切ってピストルの形にしたり……。

小刀、鋸、紙やすりなど道具の使い方は、お父様から教わったそう。

格闘技だけでなく、あらゆる道具の扱いに長けている稲川さんのルーツですね。

小学生の時、お笑い芸人になれと言われていた

小学3年生の時に学芸会で主役をやることになった稲川さん。

目立つことが好きではなかったけど、無理して頑張ったことがきっかけで、人に見られることにも慣れ、笑いをとれるようになったんだとか。

それがきっかけでお笑い芸人になれと言われていたようです。

怖いイメージがある稲川さんですが小学生の頃はひょうきん者だったようですね。

中学時代の部活は……バスケ部

意外にも中学時代はバスケ部だった稲川義貴さん。

バスケのきっかけは、漫画「スラムダンク」の影響らしいです。

しかし、うまくできず長続きしなかった様子。

スラムダンクを見てバスケを始める気持ちがわかります。戦闘者がバスケ部だったことには親近感が湧きますね。

中学生で格闘技を開始。練習場所は公園。

バスケを辞めてから、ボクシング、キックボクシング、空手を始めたそうです。

しかも、ジムや道場に通うのではなく、近くの公園でそれぞれ別の人から教わっていたそう。すごい公園ですね…!

中学1年生のとき、「やってみるか」と、声をかけてもらったことがきっかけで水引師範と出会います。

それからは水引先生だけに師事するようになったのだとか。

稲川さんは、そのときハングリー精神を教わったと話しています。

ジムや道場に通わず、公園で格闘技を学んでいた稲川さん。そういったストーリーからもサバイバル精神を感じますよね。

水引師範についても調べてみましたが、詳しい情報は少なかったです。

わかったのは……

  • ストリートファイトで強くなった人
  • 稲川義貴さんに「プロにしたい。絶対チャンピオンにしてやる」と言っていた
  • 稲川義貴さんに「修斗」を紹介した

くらいです。

稲川義貴さんが師事していたことを考えると、相当強そうですよね。

公園でどこまで強くなれるか。

水引師範には週イチで習い、練習は毎日していたとのこと。

もらいもののサンドバッグは穴だらけ。自分で縫ったり、捨ててある絨毯をビニールテープやガムテープでグルグル巻きにしたりして使っていたそうです。

サンドバックだけではなく、グローブは、軍手にボロ雑巾を詰めて使ったり、木を拾ってきて巻藁も自分で作って、それを打って拳を鍛えたり。

真冬も、公園にビニールシートを敷いて、寝技をやっていたそう。

グローブを買ってもらえるボンボンの格闘家のことをうらやましいと思ったこともあるのだとか。

このとき、「公園でどこまで強くなれるか」というハングリー精神があったそうです。

稲川さんのメンタルの強さの秘密に触れたような気がします。かっこいいですよね。

格闘技を不良に指導

中学生の時、練習していた公園が不良の溜まり場になってしまいました。

しかし不良に屈するわけがない稲川さん。

その不良連中に格闘技を教え始めます。

そして、不良たちから「稲川先輩」と慕われるようになります。

当時の事を「彼らを格闘技で更生したかった。」と話していました。

自身の格闘技を人のために使おうとした稲川さんだからこそ、尊敬されたのかもしれないですね。

実は稲川さん、この頃、公園でムエタイの選手と出会っているのですが、その選手が……チャモアペット・チョーチャモアンといって伝説のムエタイ九冠王なんです。

類は友を呼ぶとはまさにこのことですね。

高校時代は格闘技漬け

都内では「絶対に入っちゃいけないよ」と言われるほど荒れている高校に通っていたらしいです。

頬をえぐられて、血だらけで廊下に倒れている人がいたり、生徒はナイフを持ち歩いていたりと、漫画の世界ですね。

稲川さんの通う高校は、不良だけでなく秋葉原系の人もいたけど両方と仲良かったとのこと。

高校時代は、トレーニング三昧で、3~4キロの鉄アレイで左手を鍛えながら、右手でノートをとったり、自転車のチューブを椅子にひっかけて上腕二等筋を鍛えたりしていたとか。

高校は、無遅刻無欠席だったものの、一度「謹慎」があったと話していました。

ゲームボーイをオタクの子から借りたのに返さない子がいて、それに怒って、ちょっとやりすぎてしまったとのこと。

誰とでも仲良くできる人間性、人としての大きさを感じます。

ゲームボーイはちゃんと返しましょう。

高校卒業後は?

高校卒業後は義姉装具士として独立した父親から「一緒にやろう」と言われ、一緒に義足や装具(コルセットやサポーター)を作っていたそうです。

格闘家としては20歳ごろが絶頂期だった様子。

しかし、強さだけでは食っていけないことを知り、表の世界でボディガードになるか、裏の世界で活躍するか悩んだようです。

そして、当時周囲の人が「ムエタイは強い」と言うので、東南アジアへ行き「古流ムエタイ」を学びます。

漫画のようなストーリーですよね。とても興味を惹かれます。

東南アジアから帰国後

帰国後、古くから伝わる武士道を学び追求しながら、国内外で戦闘技術を学びます。

日本の伝統的な格闘技、空手や柔道だけでなく、タイのムエタイやブラジルの柔術など、様々な国の技術を習得します。

また、自身が経験した戦闘の中で、どの技術が最も有効であったかを分析し、それらを自分なりに改良するよう努めました。

その後、米軍特殊部隊の格闘技教官を務め、2005年に有名な「ゼロレンジコンバット(零距離戦闘術)」を設立します。

設立の時、お父様から「やるからには国防の精神を持ちなさい」と言われたそうです。

ちなみにゼロレンジコンバットのデザインは、a bathing apeのデザイナーでもあるsk8Thingさんのデザインだそうです。交流の幅が広いですよね。

稲川義貴さんの現在は?

現在は、自身が設立した「稲川義貴道場」で指導にあたっているほか、テレビ出演や著書の出版などでも活躍しています。

また、近年では警察や自衛隊などの訓練にも協力しており、国内外でその名を知られる存在となっています。

稲川さんは、自身が設立した道場で生徒たちに武術の技を教えることで知られています。

その道場では、彼の高い技量を学ぶために多くの人々が集まり、彼の教えを受けることができます。

また、稲川さんは、零距離戦闘術入門編という著書を出版しています。

この本は、武術の技を紹介するだけでなく、彼が学んだことや、自分自身の成長についても書かれています。

まとめ!

今回は、稲川義貴さんの経歴について詳しくまとめてきました。

戦闘者と言われ怖いイメージもありましたが、とても高い志で戦闘術と向き合っている方ということが分かりましたね!

稲川義貴さんについては、今後も注目していこうと思います!

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